後朝のコーヒー
アタミステリー紀行
後朝(きぬぎぬ) の珈琲〔コーヒー〕
森村誠一
【問題編】後朝のコーヒー
松(まつ) 千代(ちよ) は熱海の芸妓である。熱海の芸妓衆は熱海の華である。
観光立市、湯の街熱海の艶やかな粋として、芸妓には三味や踊り、お座敷での会話、
遊び以外にも、多様な芸が求められるようになった。たとえばゴルフ、碁・将棋の相手
から、カラオケや俳句、また外国人接遇のための英語力までが要求されるようになっている。
松千代は十四歳のとき、半玉のお披露目をし、一本になってから十余年、年季も明け
て、すでに自由の身である。英語を解し、ゴルフもかなりの腕前で、俳句や将棋もたし
なみ、売れっ子芸妓であった。
だが、日本髪を解き、艶やかなお座敷着から普段着に着替えると、お座敷でのオーラ
が消えて、ただの街の女性になってしまう。たまたま客が街中で普段着、素顔の彼女に
出会っても気がつかない。その落差の大きい芸妓ほど人気が高い。
芸妓の朝はおおむね早い。置屋に住んでいる芸妓は七時ごろ、自宅にいる芸妓も八時
ごろには起床する。
最近は少なくなったが、朝座敷に呼ばれることもある。朝食会や、朝の集会からお座
敷がかかる。また前夜のお客の見送りに行くことも多い。
朝の喫茶店で待ち合わせて、お別れコーヒーを共にすると、客は感激して、次の座敷
につながる。年配の粋な客などは、「後朝(きぬぎぬ) のコーヒー」などと言って喜ぶが、
若い者には意味がわからない。
稽古は糸川縁(べり) の見番にある歌舞練習場で午前十時に始まるので、それより少し前に
入らなければならない。稽古は踊り、長唄、常磐津、鼓、太鼓の鳴り物、これに月三回、
お茶や花が入る。
見番での稽古はおおむね昼に終わるが、年一回、四月二十八、二十九日の熱海をどり
は五時ごろまで稽古がある。
普通の日は、昼から四時ごろ、美容院へ行くまでが芸妓の自由時間となる。この間、
若い子は洗濯に追われる。稽古中着た襦袢は汗まみれになり、同じものを着けてお座敷
へ出るわけにはいかない。襦袢はいくらあっても足りないくらいである。
芸妓のかき入れは土曜日、日曜日。シーズンとしては年末年始や、各企業が決算期を
終えてほっとする年度替わりである。ゴールデンウィークや夏休みは、家族中心になる
せいか閑(ひま) である。
花柳界ほど敏感に世相を反映する業種はない。その時期、好況の業種のお座敷が多く
なり、不景気で下降した業界は花街から遠ざかってしまう。権力も如実に反映する。
個人のご贔屓筋、旦那衆は、いまは少なくなった。社会の構造そのものが変わってき
て、花柳界にも影響している。
昔は置屋に入り、雑巾がけから始まり、見番の芸者学校に通い、厳しく仕込まれ、よ
うやく半玉のお披露目をしたのが、いまは半玉はいない。
行儀作法や芸事を身につけたいというはっきりした目的意識を持っている子から、花
街の華やかさに憧れて、昼の仕事から替わってくる者まで、動機はさまざまである。
置屋での年季奉公が、いまは見習いから一本(フリー) のスペシャリストになっている。年季奉
公時代は、売れれば置屋の儲け、売れなければ抱え損であり、売れない子は「住み替え」
と言われる別の置屋に転売(トレード) に出されてしまう。
いまは芸妓も一種の自由業である。芸妓をしながら店を経営している者もいれば、昼
間勤めたり、アルバイトをしている子もいる。
熱海芸妓の全盛期は昭和三十年代から四十年代にかけてであり、当時のお座敷はご招
待のお客が圧倒的に多かった。今日では四、五名から十数名のグループのお座敷が主流
で、稀に別荘の主がお客を、昔懐かしいお大尽遊びに招待してくれることがある。
全盛期千四百人ほどいた芸妓も、いまは三百人を割っているが、それでも一つの見番
に二百人以上の芸妓を擁する熱海は、日本花柳界の最大規模を誇る。
観光都市熱海としての文化は、芸妓が支えてきたと言っても過言ではない。いまなお
市内には、芸妓と共に発展した呉服店、履き物店、仕立屋、傘屋などの老舗が、熱海の
芸妓文化を支えている。
売れっ子となると、客から昼食の誘いがかかる。こうなると自由時間はなくなってしまう。
松千代は束の間の自由時間に、熱海市街を見下ろす高台にあるMOA美術館まで車で
上り、海を見ながら下りて来る散歩が好きである。晴れた日には、かなたに初島を浮か
べる相模灘が、青い画布を敷きつめたように広がり、遠方に伊豆半島や大島の島影が幻
影のように烟(けむ) る。同じ風景でも、四季折々の異なる風情がある。
途中の別荘や寮は森閑として静まり返り、時折、車が上って来る以外は、気配は絶え
ている。高校の建物と校庭を左手に見て、道を何度が屈曲すると谷間(たにあい) に入り、
展望は失われるが、猿が時どき道をよぎることがある。
新幹線の陸橋を潜れば市街であるが、その手前、「大観荘」から来る道を合する辺り
には廃屋が建ち、樹木が鬱蒼と生い茂り、昼間でも陰惨な、一人では心細い場所である。
咲見町九五K七六六Mvの陸橋を潜り、さらに東海道本線一六七藤沢ガードの陸橋を
潜ると、お気に入りの〔カフェ〕喫茶店があり、散歩の後、松千代は必ず立ち寄って苦いコーヒー
を飲む。このコースは松千代のお気に入りの散歩コースであった。
国土地理院の寮「薫風荘」の近くには、竹藪に囲まれた持ち主不明の廃屋があり、秋
にはけっこうな紅葉が無住の屋敷を彩る。
あるとき、松千代は壊れかけた形ばかりの門を通り抜けて、屋内をおそるおそる覗い
ていると、突然、パトカーが停まり、「こちらのお屋敷の方ですか」と警官から声をかけられた。
「いいえ。散歩中、ちょっと覗いただけです。ごめんなさい」
松千代はうろたえて謝った。住居侵入罪にでも問われるのかとおもった。
「こちらの家の所有者がわからず、あちこち連絡を取って探しているのですがね」
と警官は言って、パトカーを発進させた。
警察が探しても所有者に連絡が取れないという廃屋に好奇心をかき立てられた松千
代は、ある秋の日の午後、荒涼たる廃屋を、紅に染色したような見事な紅葉に惹( ひ) か
れ、カメラを持って庭の中に入り込んだ。戸障子は破れ、どこからでも入り込める。
内部は荒れ放題に荒れていた。障子や襖は破れ、床には崩れ落ちた壁土や割れたガラ
スが散乱している。
広い屋敷で、部屋数が多い。だが、旅館ではなさそうである。男女別と見える浴場が
二つあるところを見ると、以前は家族以外に多数の人が出入りしたようである。
三階まであり、三階の一方は松千代が下りて来る散歩コースの上部に面する通用口に
なっている。
上層階は部屋数が少なく、畳みも破れていない。障子が少し破れているだけであるが、
老人の隠居室か、病室にでも使ったのか、この部屋にいた人は階下の騒めきを寂しく聞
いたことであろう。
通用口は錠がかけられている。階段を塞がれたら逃げ道がないことに気づいた松千代
は、急に怖くなった。
階段を伝い下りて来ると、下方にちらりと動く影があった。ぎょっとしてその場に立
ち尽くすと、「松千代姐さんじゃないか。こんなところでなにをしているんだい」
と影の方から声をかけられた。
「あら、先生。先生、脅かさないでくださいよ。心臓が止まりそうになったわ。先生こ
そ、こんなところでなにをしていらっしゃるのですか」
影の主は熱海に居を構えて仕事をしている作家の北村(きたむら) 直樹(なおき) であった。
北村と一緒に撮影した写真を、松千代は常時持ち歩き、半年ほどしてから市内で偶然彼に
出会ったとき、その写真を手渡すと、大いに感激して、その後、彼女を贔屓してくれた。
彼の編集者の会の座敷にも時どき呼んでもらっている。
「『廃屋や昔を偲ぶ肝試し』だよ」
北村は即興らしい俳句を詠んだ。
「道草や中途半端な肝試し」
松千代は咄嗟に返句した。
「いいねえ。ぼくの句よりずっといい。『中途半端の肝試し』なんて、まさにぴったり
じゃないか。『廃屋に昔を偲ぶ』なんて目的意識が強すぎて情緒がない。それに比べて、
道草途中のおっかなびっくりの肝試し。その場の情景がよく詠(うた) い込まれている」
北村は松千代の即興句を激賞してくれた。
北村は松千代の贔屓筋であるだけではなく、彼女の俳句の師匠でもある。
「消防署の勧告で半年先に、この屋敷も取り壊しになるということだよ。荒れ果てては
いるが、古格のあるなかなかいい建物だ。庭も風趣がある。ここから見下ろす相模灘は
絶景だよ。熱海から、また文化財的な建物が消えていくね」北村は寂しげに言った。
週末は熱海芸妓のかき入れどきである。バブル経済の崩壊後、長期の構造的不況は全
国の観光地に深刻な影響を及ぼしているが、日本随一の温泉都市としての熱海を支える
芸妓は、登録数三百人、京都や東京の花街を凌いで、日本一を誇る。
熱海では観光客が気軽に芸妓文化を楽しめるように、糸川縁の見番で華の舞、芸妓踊
りを毎週土曜・日曜日、午前十一時から一回、公演する。
また毎年四月二十八、二十九日には、熱海芸妓のオンパレードである熱海をどりが開
催され、本年で十六回目を数える。
松千代は華の舞の〃プリマドンナ〃として踊るので、夜のお座敷と掛けて週末は出ず
っぱりとなる。
芸妓の踊りを見るには、芸妓と地方(じかた) (おはやし)を座敷に呼ばなければならず、高い
という意識が一般にはあるが、華の舞は熱海の綺麗どころが勢揃いして、芸妓踊りの精
華、文字通り華の舞を披露する。
個人で座敷に呼べば相当な物入りになる芸妓踊りを、手軽に、安価に楽しめることか
ら、観光客の評判も上々で、公演日は常に会場が満員になってしまう。特に外国人団体
の観光コースに組み入れられ、圧倒的な人気を博した。またわざわざ華の舞を見に来る
常連客も少なくない。
芸妓のお座敷はおおむね常連であるが、以前に比べて、いわゆるお大尽遊びをする客
は少なくなっている。紀文や、奈良茂のような豪遊をする客がいなくなったというより
は、社会の構造が変わってきているようであった。お座敷も、芸妓の意識も、時代に対
応して変わらざるを得ない。
一昔前であれば、芸妓の芸のうちに英語や、カラオケや、ゴルフが入ることは考えら
れなかった。芸妓の看板芸も三味や踊りだけに留まらず、多様化せざるを得ない。
稀に馴染客が昔を偲んで座敷をかけてくれることがある。松千代が半玉時代のお大尽
は、いまは引退して、横丁のご隠居さまになっている。松千代を呼んで掘炬燵を囲み、
松千代の酌でゆっくりと盃を傾けながら、昔を偲ぶ。最近はそのような客は少なくなった。
ある大企業の創始者が松千代を呼んでくれたとき、「歳月を浮かべる酒や掘炬燵」と、
彼女が詠んだ一句にいたく感激してくれた。
個人のお座敷は少なくなったとはいうものの、昔のご贔屓筋が熱海へ来ると呼んでく
れて、碁・将棋のお相手や、芸妓の酌で昔語りに興ずる。個人のお座敷は年配のお客が
圧倒的に多い。最近は芸妓のお座敷も団体が多い。
だが、最近、松千代は若い個人客のお座敷に呼ばれた。この道にかなり年季を入れて
いるつもりであるが、こんな奇妙なお座敷は松千代も初めてであった。おそらく熱海芸
妓三百人の中でも、このようなお座敷に呼ばれた芸妓はないであろう。
その客は新婚旅行で熱海に来た。そもそも新婚旅行客が芸妓を呼ぶということが尋常
ではない。
ある日曜日の夜、松千代によくお座敷をかけてくれる老舗旅館から指名されて、松千
代は初めてその客に会った。一見三十前後、スリムな細面の気弱げな客であった。熱海
の客は団体、家族連れ、カップルが主流で、一人で、それも老舗旅館に泊まる客は極め
て稀である。
松千代を可愛がってくれる旅館の女将が、そっと耳打ちした。
「このお座敷さん、新婚旅行でいらっしゃったんだけれど、お嫁さんに逃げられてしま
ったのよ。恋人が熱海にいるらしく、初夜というのにお婿さんを放り出して、恋人の方
に逃げちゃったんですって。新婚旅行の初夜を一人で過ごすのを見るに見かねて、松千
代さんならなんとか慰めてあげられると、私の独断で呼んだの」
「女将(おかみ) さん、いくらなんでも、お嫁さんの代役までは無理ですわ」松千代は驚いた。
「まさか。お床入りまで頼まないわよ。慰めるだけでいいの。新婚旅行の想い出を、松
千代姐さんがつくってあげてちょうだい」難しい注文であった。
それにしても恋人がいる町へ新婚旅行に来るとは、どういうことであろう。新郎はそ
うとは知らずに熱海を選んだのか、あるいは新婦が熱海へ誘ったのか。そうだとすれば
質(たち) が悪い。松千代は他人事ながら義憤に駆られた。
その客は松千代が気に入ったらしい。新婚初夜に花嫁に逃げられて、心に深いダメー
ジを受けていた。彼はその傷を松千代に訴えることによって癒そうとでもするかのよう
に、身の上話を縷々(るる) 語った。
彼は札幌の食品会社の社員で、勧める人があって見合結婚をした新妻に逃げられたと
いうことである。
「海外に行っても疲れるばかりだから、国内の温泉にでも行って、二人だけでゆっくり
と過ごしたいという彼女の希望を入れて熱海に来たのですが、まさか、ここに恋人がい
るとはおもってもみませんでした」と彼は言った。
「熱海は奥様が選んだのですか」
松千代は問うた。
「いいえ、私が選びました。日本一の温泉都市として、テレビやその他のマスコミに紹
介される都度、前から行きたいとおもっていたのです」
「奥様は熱海と聞いて、反対はなさらなかったのですか」
結婚前の恋人が住んでいると知れば、新婚旅行先として避けるのが普通の心理であろ
う。「いいえ、べつに。彼女も喜んで賛成してくれました」
「せっかく熱海に来たのだから、一目会いに行っただけかもしれませんわ。奥様のご不
在中、私などを呼んでいるとまずいんじゃありません?」
「いいえ、部屋には荷物も衣服も、なに一つ残っていません。熱海と決めてから計画的
だったのです。新婚旅行中にそんな女とわかって、かえってよかったのです。子供でも
生まれてから、昔の男の許に逃げられたら、たまったもんじゃありませんよ。いまさら
帰って来ても、ぼくはもう許しません」
「そんなこと、おっしゃらないで。奥様も後悔なさって、明日の朝までにはお帰りにな
りますわ」
「賭けてもいい。まず帰って来ない」
その客の気持ちは、今夜会ったばかりの松千代の方に完全に傾いているようである。
松千代も今宵限りの一見の客とはおもえなくなっていた。
芸妓は多数の客に接するが、いずれも一期一会の座敷であり、客として大切にしてい
る。たとえ同じ客に侍(はべ) っても、今宵の出会いは絶対に繰り返せない。「一世一度の会」
とおもえば、あだ疎かにはできない。
初めての客であったが、二人の間に話が弾み、街に出て、一緒に鮨を食べてから別れた。
別れしな、松千代はその客と、翌朝コーヒーを飲む約束をした。
松千代は一夜限りの座敷であっても、時間の許す限り、翌朝、コーヒーを一緒に飲んで
見送るようにしている。
一杯のコーヒーが、その客に熱海の想い出を深く刻み、次回のお座敷につなぐことがある。
行きつけの喫茶店の前に、毛が短く、胴が長く耳が尖ったコーギーがつながれていた。
この界隈では見かけない犬なので、飼い主はよそから来たのであろう。店内には数人の
客がいた。ほとんどが常連で、三十代半ばと見える見馴れない顔が一人いる。松千代は、
彼が飼い主であろうと見当をつけた。
間もなく待ち合わせた客が来た。朝のコーヒーに約束通り現われた客に、松千代は彼
の新妻はとうとう帰って来なかったことを悟った。
その日、華の舞に出演する前の艶やかな日本髪、お座敷着を着けて約束の喫茶店に現
われた松千代に、客はいたく感激して、再訪(セカンドコール) を約束してくれた。
「さすが、きみがご馳走してくれる後朝(きぬぎぬ) のコーヒーは美味(おい) しいね」
客はすでに死語になっているようななまめかしい言葉を使った。松千代は後朝の意味
が少しちがうとおもったが、あえて訂正しなかった。
喫茶店を出た松千代は、駅まで客を見送った。客は想い出に、松千代と一緒に写真を
撮りたいと言い出した。
「だれかにシャッターを押してもらいましょう」
駅前の機関車のかたわらで、松千代はシャッターを押してくれそうな人を物色した。
日本髪、お座敷着姿の松千代に衆目が集まっている。
「先生、ちょうどよかったわ。ちょっとシャッターを押していただけませんこと」
そのときちょうど駅の改札口から出て来た北村直樹の姿を、松千代は目敏く見つけた。
所用で帰って来たところらしい。
北村は気さくに客からカメラを受け取り、機関車をバックに何度かシャッターを押し
てくれた。
「北村直樹先生ですか。御作品は愛読しております。熱海の松千代姐さんとのツーショ
ットを、北村先生にシャッターを押してもらうとは光栄です」
客は喜んだ。
別れしな、客は松千代に名刺を渡し、北海道に来るようなことがあったら、ぜひ連絡
してくれと言い残して、何度も振り返りながら別れた。
一ヵ月ほど後、松千代は一通の封書を受け取った。井草(いぐさ) 秀行(ひでゆき) と書かれた差出人名に、
松千代はおぼえがあった。新婦に逃げられた新婚旅行の客である。
封を開くと、次のような手紙に、北村にシャッターを押してもらった写真が添えられていた。
「あの節はとてもお世話になりました。惨憺たる新婚旅行が、あなたのおかげで忘れ得
ぬ楽しい熱海の想い出に変わりました。心から感謝申し上げます。
あの節、駅前で北村直樹先生にシャッターを押してもらった写真をお送りします。ア
ルバムの隅にでもお留めいただければ幸いです。ますますのご活躍を祈ります」
そして追伸として、
「あの節、後朝のコーヒーと申しましたが、実際とは少し意味がちがいます。一夜の情
を交わした男女が別れる朝の余情のことを言いますが、私の偽らざるあなたに対する想
いでした。本当に『後朝の別れ』であればよいとおもったものでした」
としたためられていた。
松千代は、おもわず頬が赤らむのをおぼえた。機関車をバックに井草と寄り添ったツ
ーショットは、いかにも仲睦まじげに、まさに一夜の情を交わしたかのような後朝の余
情を表現している。さすがに北村が切ったシャッターであった。
改めて写真に目を向けた松千代は、おやとおもった。
写真の一隅に犬が入っている。その犬におぼえがあった。井草と後朝のコーヒーを飲
んだ喫茶店の前につながれていた犬が、機関車の前の記念撮影に入り込んでいる。その
犬は界隈では見かけない犬なので、見まちがいはない。
犬の首にはリード(ロープ)がつながれ、その先にいるはずの飼い主は写真の構図か
ら外れている。犬だけが勝手に駅まで歩いて来て、写真に入るということは考えられな
い。その証拠に、飼い主の存在を示すリードが見える。
松千代はこんな偶然もあるのかと驚いた。たぶん、犬の飼い主も駅の方に用事があっ
て、偶然、飼い犬が記念撮影の中に入り込んだのであろう。狭い町であるから、このよ
うな偶然があっても不思議ではないであろう。
約一年後、熱海市内、林ガ丘町の廃屋で、若い女性の変死体が発見された。発見者は、
庭の紅葉が見事なので、写真を撮りに入り込んだ熱海在住の作家北村直樹である。
なにげなく屋内を覗き込んだ北村は、一階の和室の床に倒れている女性の死体を見つ
けて、熱海署に届け出た。
熱海署員が臨場して調べたところ、死体の首には紐を巻きつけて絞めた痕が認められ、
他殺と断定した。死後経過約十時間、別の場所で殺害されて、廃屋の中に死体を運んで
遺棄された可能性もあった。
推定年齢二十代半ば、死体には身許を示すような所持品がまったくないところから、
犯人が持ち去ったものとおもわれた。
鑑識課員が死体の衣服に付着している犬の毛とおもわれる動物の毛を採取した。その
毛は鑑識の検査によって、犬の毛と鑑定された。
殺人事件と断定されて、熱海署に捜査本部が設置された。
被害者の身体特徴は照会センターに照会されて、配偶者から捜索願が出されていた井
草繁美( しげみ) (二十五)、主婦、札幌市××と該当し、夫の井草秀行に遺体の確認が
要請された。
札幌から急遽、来熱した被害者の夫によって、遺体の主は井草繁美と確認された。
夫から事情を聴いたところ、
「一週間ほど前に突然失踪しました。捜索願を出すと同時に、熱海に結婚前から交際し
ていたという恋人がいると聞いていたので、同地、および心当たりの場所を探しました
が、行方はわかりませんでした」
ということであった。
推定犯行時間帯には、夫にはアリバイが成立した。
【設問】
今回は趣向を変えて、犯人当ての問題ではなく、出題作品中の矛盾点を指摘してくだ
さい。大きな矛盾点は四つあります。そして、できれば犯人、あるいは容疑者も指摘し
てください。固有名詞でなく、おおよその見当で答えてください。あまり難しく考えに
ならないでください。四問中三問以上答えた方を正解といたします。
■ 矛盾点1
■ 矛盾点2
■ 矛盾点3
■ 矛盾点4
■