アタミステリー紀行
新生の館 〔しんせいのやかた〕森村誠一
【問題編】
さかのしゅんや
坂野俊哉は生きるのが面倒くさくなった。いっそのこと死んでしまえば、きれいさ
っぱりする。
仕事にも恋にも行きづまり、サラ金に手を出したのが運の尽きで、あっという間に
借金はまさにバイ菌のように繁殖して脹れ上がった。サラ金の追求は厳しく、日本全
国、世界の果てまでも追いかけて来る。
にっちもさっちもいかなくなって、死の淵を覗いた。おもいきってそこに飛び込め
ば、すべてが解決する。実際はなにも解決しないのであるが、一命と交換に、無責任
への逃避である。そうおもうと急に気が軽くなった。
いりえなおみ
入江奈緒美に相談してみると、意外にあっさりと同意してくれた。
奈緒美は数年前、母を病気で失った後、つづいて父が交通事故に遭って死に、暴力
団員であった兄が抗争中刺殺された。相次ぐ身内の不幸に止どめを刺すように、最近、
彼女の会社が倒産して、無気力になっていたところであった。
「そうね。一緒に死んじゃおうか。そうすれば後腐れがなくていいわ。私も生きるの
に疲れてきたのよ。生きていても、これから先いいことはありそうもないし、俊哉さ
んと一緒に死ぬのなら怖くないわ」
と奈緒美は八方塞がりの中で、むしろ一筋の光明を見いだしたような顔をした。二
人一緒に死ぬ覚悟ができて、死ぬための準備が始まった。
どうせ死ぬのであれば、この世の名残に、したいことをしておきたい。
とりあえず行ってみたいところに旅行しようということになった。経済的に余裕が
ないので、海外は無理である。それに疲れる。国内の温泉を金が尽きるまでのんびり
とまわって、景色のいいところで死ぬことにした。
不思議なもので、死ぬための準備を始めると、まるで愉しいことでも計画している
ように心が弾んできた。
まず、死に場所が問題になった。
「列車に飛び込んだり、海に身を投げたりするのはいやよ。だれにも見られず、山や
樹海の奥深くで死ぬのはちょっとロマンティックに聞こえるけど、たいてい山の動物
に死体を食われてしまうと聞いたわ。死ぬなら、やっぱり家の中ね」
「すると、旅館かホテルで心中ということになるね」
「それも、死んだ後、大勢の目にさらされていやだわ」
「それじゃあ、死に場所がないよ」
「探して。私たちにふさわしい死に場所がきっとあるわよ」
こうして死に場所探しが始まった。だが、二人にとって理想的な死に場所はなかな
か見つからない。
この時期、坂野は死出の旅路のガイドブックを買いに入った書店で、偶然、一冊の
本に出会った。それは『写真俳句の愉しみ』という句集であった。
これまでの句集と異なり、俳句と写真を組み合わせ、これにエッセイがついている。
ビジュアル抽象的な俳句が写真とセットになってわかりやすく、見せる俳句になっている。よ
作者が日常の散歩途上俳句を詠み、携行したカメラで撮影した句材や句境をつけて
いる。一句一写、俳写同格である。
これに侍るエッセイが、だれにでもおもい当たるような経験や想い出を散文詩のよ
うな文章で描き、郷愁をそそる。一句一写、そういえば自分にもこんなようなことが
あったなと、なにげなく通り過ぎて来た街角や風景を振り返るような気持ちにさせられる。
店頭でなにげなくその本のページを繰っていた坂野の指が止まり、視線が固定した。
そのページには
立ち枯れし家の秘密や水の音
という俳句に廃屋の写真がつけられていた。
たにあい
エッセイを読むと、作者の散歩コースにある廃屋で、鬱蒼たる樹林に包まれた谷間
にあるという。
「いまにも倒壊しそうであるが、近づいてみると意外にしっかりした構えである」。
この後は作者の想像になり、
「社会で悪の限りを尽くした人間たちが精巧なマスクを被って寄り集まり、擬似家族
として仲良く暮らしていたが、ついに彼らに追手が迫った。擬似家族は訣別の宴を張
って、一人ずつ家を出、マスクを外す。またどこかで出会うことがあっても、相手が
かつての家族であったことはわからない悲しい離散を迎える。もしかすると、この廃
屋はそんな擬似家族の隠れ家であったのかもしれない」
と憶測をたくましくする。
坂野はその写真俳句とエッセイに、おもわず、これだと声を出した。この廃屋こそ、
彼らの死に場所にふさわしい。
エッセイによると、ずいぶん長期間無住のまま放置されているらしい。写真ではか
なりの構えであり、部屋数も多そうである。
廃屋であるから、当然、だれも近づかない。好奇心の旺盛なその作家ですら、谷間
の一日中陽の光が射さないような家の中には入り込んでいない。まさに二人でひっそ
りと死ぬ場所としては理想的な環境ではないか。
坂野は早速、その本を買って奈緒美に見せた。奈緒美は一目写真を見て、たいそう
気に入ったようである。
「これよ。私、こんなところで死にたかったの。渓流に面した樹林の中なんて、ロマ
ンティックじゃない。ここにしましょう。ここ以外にはないわ」
理想の死に場所を見つけて、奈緒美は浮かれている。
「でも、この廃屋、どこにあるの」
奈緒美は、ふと気がついたように問うた。
「それは、きみの同意を得てから確かめるつもりだった」
「あら、まだどこにあるかわからないの?」
「撮影地が書いてないからね。出版社か作者に聞いてみるよ」
「おしえてくれるかしら」
「たぶんね。べつにおしえても不都合なことはないだろう」
「大いにあるわよ。作者にしてみれば、自分が撮影した場所で心中されたら、後味が
悪いでしょう」
「もちろん心中するなんて言わない。とても気に入ったので、現場を見に行きたいと
言えば、作者は悪い気はしないだろう」
早速、出版社に問い合わせたが、編集者は知らないようであった。
作者の住所は文芸手帖に掲載されている。坂野も名前を知っている作家であったの
で、直接問い合わせてみた。
読者から現場を見たいと言われて、作者は悪い気はしなかったらしく、丁寧におし
えてくれた。
その廃屋は静岡県熱海市域にあるそうである。熱海であれば、坂野と奈緒美の住居
から通勤圏内に入るほど近い。
坂野は奈緒美と最後の旅行に旅立つ前に、熱海に廃屋の確認に行った。終着地に着
いたところで、廃屋が取り壊されたりしていれば、死に場所を失ってしまう。
作家がおしえてくれた所在地に、その廃屋は健在であった。渓流に面した崖っぷち
に、密度の濃い樹林に埋もれるように建つ、一目で廃屋とわかる老朽家屋であるが、
作家も言ったように建物はしっかりしている。
谷間の樹林に覆われた陰惨な地形にあり、一日中陽が射し込まない。すぐ近くを新
幹線と東海道線の高架が走り、騒音が絶え間ない。高架を潜る暗渠を時どき車が往来
するが、通行人はまったく見えない。
玄関は固く施錠されていた。坂野は裏手にまわってみた。崖に面した裏手は足許が
危ないが、歩けないことはない。谷底から水音が迫ってくる。裏手の窓はガラスが破
れていて、入ろうとおもえばそこから入れる。引いてみると、立てつけは悪いが、施
錠はされていない。
恐る恐る屋内に踏み込んでみると、おもったほど荒れていない。障子は破れ、壁は
かび
黴だらけであり、畳は変色していて湿っぽいが、家屋の体裁を成している。これなら
ば人目につかぬ屋内の死に場所として充分であった。
偵察を終えて帰ると、坂野は奈緒美に報告した。
「よかったわ。これで私たちの〃永住の地〃が定まったわけね」
奈緒美は面白い表現を用いた。
「お金が尽きるまで、全国の美しい場所や温泉を旅行してから、熱海に行きましょう
よ」
奈緒美が提案した。坂野に異議はない。この世に未練を残さぬよう、行きたい場所
おい
を訪ね、愉しいことをし尽くし、美味しいものを食べまくり、この世の歓を尽くした
後で死にたい。
どうせ返さぬ金であるから、さらに新たなサラ金から金を借り(奪い)、二人は死
出の旅に出た。死出の旅でありながら、まったくそんな気はしない。
人間として、社会に参加している限り、割り当てられた仕事や、責任や、義務を負
担しなければならない。だが、生きることをやめてしまえば、すべての責任や義務か
ら解放される。債鬼もあの世までは追いかけて来ない。
二人はこの世におさらばをする決意をしてから、吹っ切れたような気持ちになった。
それは一種の悟りともいえよう。
二人は北陸、能登方面から日本海側を伝って九州へ渡り、長崎、熊本、鹿児島を経
て別府温泉や道後温泉に立ち寄り、京都に数日滞在した後、最後の目的地である熱海
へ来た。サラ金から借りた返す意思のない旅費もようやく心細くなっている。
さすがにこの地が人生の終着駅と知ると、感慨無量になった。
東京から新幹線で一時間弱の通勤圏内であるのに、彼らはこれまで通過するだけで、
熱海に下車したことはなかった。
くろたけ
相模湾に面し、背後を十国峠から玄岳へとつづく山並みに囲まれ、海になだれ落ち
る山腹に大小のホテル・旅館、別荘、寮などが軒を連ね、夜ともなると各館に競う灯
火が海面に砕ける無数の光となって圧倒的な夜景を誇る。
綺麗どころも二百八十人を抱え、新橋、赤坂、祇園などを圧して、断然、日本一の
規模を誇っている。
はっぴ
熱海駅に下り立つと、各ホテル、旅館の法被を羽織り、旗を持った案内係が声をか
ける。下り立った乗客の大多数は観光客であり、不景気とはいいながら、さすが日本
一の温泉都市の賑わいを示している。
観光客は団体が多い。つづいて家族連れやカップルである。最近は新婚旅行客も増
えているようである。以前は自殺の名所となっていた錦ヶ浦に人生の終止符を打とう
として来る者もいたそうであるが、そこがホテルとなってから、自殺者は少なくなっ
たという。
彼らが死出の旅路の終着駅としてこの地に来たことを見破る者はいなかった。
宿は特に予約をしていない。二人が名前だけは知っていた「起雲閣」という熱海き
っての老舗旅館は廃業して、市の施設になっていると聞いた。
二人は残った旅費をあまさずに使い切ってから死ぬつもりであった。
熱海に見るべき場所は多い。お宮の松や、双柿舎などの熱海のハイライトを効率よ
かん
く結ぶ周遊バスに乗って、ざっと土地鑑(土地の見当)をつけてから、特に気に入っ
スポット
た場所へ行けばよい。
美しい風景の三要素は、山と水と緑といわれるが、熱海はこの三つを実にバランス
よく配している。さらに、観光資源として豊富な温泉、海水浴場、ゴルフ場以下の各
種スポーツ施設、名所、史跡、近代的な宿泊施設、花街などを擁し、年間を通して花
火や祭りや、各種フェスティバルなど、来遊客を飽かせないイベントが目白押しにな
っている。
おおかたの観光スポットを見終わった二人は、最後に起雲閣に行った。
うちだしんや
パンフレットによると、起雲閣の創始は、当時、船成り金といわれた内田信也。山
を崩し、田を埋め立て、三千坪の土地を造成し、一九一九年(大正八)に別荘として
完成したという。
ねづかいちろう
その後一九二五年、鉄道王と呼ばれた根津嘉一郎がこれを継承して、庭の造園、洋
間や離れや茶室をつくり、根津別荘をつくった。
名前からして豪勢なローマ風呂、銘木で固めた洋室、多彩なステンドグラス、モザ
イク模様のタイルの床、石仏を埋めたマントルピース、千石船の帆柱、和洋折衷の各
部屋から大小数百の名石、巨石を集めた庭園を囲み、各建物ブロックが渡り廊下によ
って連結され、どの部屋からも名園を一望におさめるように設計されている。
あがな
市街地の中に森があり、広壮な庭園が広がり、巨富によって購った豪勢な空間が
隔離されている。
この両富豪によって完成した別荘が、旅館「起雲閣」として開業したのは一九四七
年(昭和二十二)であり、熱海在住の志賀直哉や谷崎潤一郎に愛され、山本有三や舟
橋聖一、太宰治などが滞在して執筆した。
舟橋聖一は一九四八年(昭和二十三)、起雲閣の離れ・孔雀の間に滞在して『雪夫
人絵図』を書いた。この作品の映画化に際して、舟橋が起雲閣のローマ風呂を使うよ
うにと熱心に勧めたので、女優の入浴シーンをローマ風呂で撮影したそうである。
また太宰治は一九四八年三月に、愛人・山崎富栄を伴い、林が丘にあった別館に一
ヵ月滞在して『人間失格』を書いた。
この間、本館の大鳳に何泊かした後、『人間失格』を完成し、三ヵ月後の六月十三
日には山崎富栄と共に心中した。
現在は市が買い取り、文化財として一般に開放している。平日ではあったが、かな
りの観光客が見物に訪れていた。新婚らしいカップルもいる。
来館者は玄関の受付でビジターズブックに姓名と住所を記入する。任意であるが、
ほとんどの入館者が記念として記入していた。坂野と奈緒美も記入した。これがこの
世における二人の最後の記録とおもえば、心の奥から突き上げるものがあった。
起雲閣の建物は広大な庭を囲むようにして設計されている。谷崎潤一郎や志賀直哉
ら文士が愛しただけあって、いずれの部屋からも広壮な庭を望み、閑静な執筆環境が
保証されているようである。
太宰治もこの起雲閣の一室に、最後の恋人・山崎富栄とこもって『人間失格』を書
き上げたという。
現代の作家は、このような貴族趣味的な執筆環境を好まない者が多い。むしろ、自
分には無関係な適度な騒音が流れ、空気が動いている方が精神を集中しやすい。また、
セックスの対象となる女性と閉じこもっては、執筆に専念できない。
作品と向かい合うためには、およそ情緒的なものはすべて省き、ほかになにもする
ことがないので、やむを得ず執筆するというような、むしろ刑務所のような環境が望
ましい。居心地がよく、美味しい料理と美しい風景に囲まれ、手を伸ばせば至近距離
に若い女性が侍り、一歩外に出れば魅力的な街並みがあるような環境は、とても執筆
に向かない。
だが、そのような不適当な環境において、『人間失格』を書き上げた太宰は、ある
意味では極めて意志の強い作家といえよう。おそらくその不適当な環境での執筆によ
る反動から、『人間失格』を書き終えた後、山崎富栄と共に玉川上水に投身したのか
もしれない。
さすがに昔の作家たちが愛しただけあって、今日の手抜き工事だらけの安普請や耐
きん
震偽装のビルが犇く街では見られない金を積み重ねたような建物や、宝物のような家
ちりば
具什器のコレクション、どの部屋からも望める宝石を鏤めたような庭園は、まさに
富の集積である。
見学コース途上、坂野と奈緒美は、太宰治が恋人と共に宿泊した大鳳の間に来た。
レトロ調のガラス窓にもたれて外を見ると、一際庭園の眺めがよい。死を前にして、
太宰と恋人はどんな気持ちで、特権階級のみが独占できる名園を眺めたのであろうか。
大鳳の間には先客がいた。彼らは玄関で一緒になった若いカップルであった。新婚
らしく、まだ他人行儀が残っている。
二人はひそひそとなにごとか話し合っていたが、坂野と奈緒美が入って行くと、ぴ
たりと口をつぐんで、そそくさと出て行った。坂野は二人に対して、なにか悪いこと
をしたように気がとがめた。坂野らが入って行かなければ、まだその部屋に留まりた
そうな雰囲気であった。
ゆっくり見学したので小一時間かかった。館内を一巡した二人は、喫茶室で休んだ。
特権階級のみに許された施設が倒産して解体される前、市役所が購入して一般市民
に公開されている。そこに時の流れが感じられた。
大鳳の間で見かけたカップルの姿は、すでに立ち去ったらしく、見えない。
二人はゆっくりとコーヒーを飲み、今宵の宿、二人の人生最後の宿に向かった。
行き当たりばったりに感じのよいホテルに宿を求めると、空室があった。
さすがに今夜がラストナイトとなると、さまざまなおもいが胸に犇き立ち、料理の
味もよくわからなかった。
食後、床に入った二人は、最後の儀式のように交わったが、ほとんどなにも感じな
かった。
二人は夜明けまでまんじりともせずに過ごした。夜半から窓辺に雨の音が気になり、
ますます眠れなくなった。明け方うとうととすると、すでに窓が明るくなっていた。
雨はいつの間にか止んでいた。
支払いはすでに昨夜のうちにすましてある。
ほとんど同時に目を覚ました二人は、
「いいかい」
「いいわ」
と覚悟のほどを確かめ合った。朝食は摂らずに、二人は朝の散歩を装ってホテルを
出た。ホテルから廃屋まで歩いて行ける距離である。タクシーを呼ぶと不審を招く虞
があるので、彼らは歩くことにした。坂野はすでに下見をしてあるので迷うことはな
い。
坂の街を登り、在来線と新幹線の高架の下を潜ると、緑に埋まるようにして廃屋が
見えた。朝の新鮮な光が雨に濡れた樹葉の間から降りこぼれてくる。野鳥のさえずり
が渓声を消すほどに賑やかである。
二人は手を取り合っていた。一見、仲のよいカップルが早朝の散歩を愉しんでいる
ようである。
と
廃屋から少し離れた坂の途上に、一台の乗用車が駐まっていたが、車内に人影は見
えない。近くの住人が路上駐車しているのであろう。
いざな
坂野はロックされている玄関を素通りして、裏手に奈緒美を誘った。
二人は裏口から難なく屋内に入り込んだ。屋内は複雑な間取りで、部屋数が多い。
坂野も下見のときに〃死に部屋〃までは決めていない。
廊下に面していくつか部屋が並んでいる。主の居室に使っていたのか、最も広そう
な部屋に足を踏み入れようとした二人は、ぎょっとして立ちすくんだ。
「ひ、人がいる」
奈緒美が悲鳴のような声をあげて、坂野にしがみついた。
居室の奥の方に若い女性が横たわっている。昼なお暗い屋内であるが木漏れ日が揺
れている。女性はぴくりとも反応しない。そんな薄気味悪い廃屋で、若い女性が一人
で眠っているはずはない。
女性の顔が二人の方を向いていた。ちょうど木漏れ日が揺れて、女性の顔に降りか
かった。二人はその顔に記憶があった。起雲閣で出会ったカップルの一方の女性であ
る。
「ねえ、死んでいるみたい」
奈緒美の言葉が限界であった。二人は廃屋に入り込んだ目的を忘れて、手に手を取
って逃げ出した。奈緒美を先に逃がしたのはさすがであった。二人は死ぬ意志を失っ
ていた。
ようやく明るい陽射しのもとに逃げ出した二人は、いま目撃した事実について考え
た。
若い女性が一人、廃屋の中に横たわっていたこと自体が異常であったが、二人に対
してなんの反応もしなかったことも、さらに異常である。
起雲閣で見かけた連れの男はどこに行ってしまったのか。
まがまがしい想像が二人に走った。
ひと
「ねえ、連れの男があの女を殺したんじゃない?」
奈緒美が想像を口にした。
「警察に通報しよう」
もはや坂野はためらわなかった。
市域の林が丘町の廃屋で死んでいるような若い女性を発見したという通報を、散歩
中の通行人から携帯電話で受けた熱海署員は、直ちに現場に急行したが、件の廃屋の
中には通報に該当する死体も人の気配もなかった。
ただ、屋内の居室に、起雲閣のパンフレットが一部落ちていた。
たち
質の悪いいたずらかとおもったが、間もなく通報者は熱海署に出頭して来た。彼ら
は熱海署員から、廃屋の中には猫一匹いなかったと告げられて、
「そんなはずはありません。私たちは確かにこの目で見たのです。昨日、起雲閣で出
会ったカップルの一人です。連れの男が女性を殺して逃げたのにちがいありません」
と通報した二人は口々に訴えた。嘘をついているようにも見えない。もし嘘をつい
ているのであれば、わざわざ警察署に出頭して来るはずがない。
「猫一匹いなかったが、居室に起雲閣のパンフレットが落ちていた。それはあなた方
が遺留したものではありませんか」
署員は問うた。
「いいえ。私たちは起雲閣に行きましたが、パンフレットはもらって来ませんでした」
とすると、そのパンフレットは消えた女性か、連れの男が残したことになる。
「そうそう、私たちが廃屋の中に女性を発見したとき、近くの路上に一台の乗用車が
駐まっていました」
目撃者のうちの男がおもいだしたように言った。だが、警察が臨場したときは、廃
屋の付近にそのような車はなかった。
「ところで、あなた方はなぜ、そんな廃屋に入って行ったのですか」
熱海署員の一人が問うた。
「それは、その、つまり、廃屋の感じがとても情緒的だったので、写真を撮ろうとお
もって入り込んだのです」
束の間返す言葉に詰まったようであったが、カップルの男の方がへどもどしながら
答えた。
「情緒的ねえ」
熱海署員は事情を察したようにうなずいた。カップルはカメラは所持していなかっ
たが、携帯電話で通報してきた。
通報者が嘘をつく理由はない。
カップルの姓名、住所を聞いて帰した後、ほとんど間をおかず、市域の市道で轢き
逃げ事件が発生したという通報が近所の住人から寄せられた。現場は件の廃屋からあ
まり離れていない市道である。
押っ取り刀で臨場すると、被害者はすでに死亡していた。被害者の遺体が路傍の
くさむら
叢に倒れていたために発見が遅れたらしい。
被害者は外から観察しただけでも、頭蓋骨骨折が触知され、その他顔面や、身体各
所を強く打ち、即死同然に死亡したと推定された。
死体は新しく、死後経過時間は三十分.一時間と推定された。ちょうど女性の死体
通報に署員が廃屋に臨場している時間帯と同じころ、轢き逃げが発生したことになる。
ダメージ
被害者は衝突後、宙にはね上げられ、転倒位置に叩きつけられたために損傷が大き
くなったようである。現場は谷間の市道で、山の方のマンションや保養所にタクシー
が間道に利用する程度で、交通量は少ない。
加害車は少なくとも六十キロ、衝突時速度五十五キロほどで走行していたと推定さ
れる。制限速度は三十キロ(※確認)。加害車両はそんな間道を二十五キロ以上もオ
ーバーして疾走していたことになる。
昨夜来から強い雨が降っていて、現場周辺に遺留されているはずの加害車両の塗料
片や積載物破片、タイヤ痕など、証拠資料すべてが洗い流されていた。
現場検証をしていた熱海署員が、叢の中から由緒ありげな中国の石仏一体を発見し
た。
署員は、その石仏に記憶があった。それは市内の起雲閣・玉渓の間のマントルピー
スの上に飾られていた石仏であった。なぜ、そんな骨董品が轢き逃げ現場に遺留され
ていたのか。
署員は早速、起雲閣に照会した。そして、その石仏が昨夜から今朝にかけて、表玄
関に飾っていた高麗の石仏二体と共に盗まれていたことがわかった。
間もなく被害者の身許が割れた。沼津市在住の骨董商で四十三歳、窃盗と故買の前
科があった。
熱海署はその骨董商が起雲閣から三体の石仏を盗んで逃走途上、轢き逃げされたと
推測した。だが、あと二体あるはずの窃盗被害に遭った石仏は現場から発見されなか
った。
翌日、静岡県警交通捜査一係と熱海署の轢き逃げ捜査班は、自宅に逃げ帰っていた
轢き逃げ犯人を逮捕した。
【出題】
一、坂野と奈緒美が廃屋の中に発見した女性はどこに消えたのか。なぜ消えたのか。
二、激しい雨が現場の加害車両の証拠資料を洗い流しているはずなのに、警察はどの
ようにして轢き逃げ犯人を逮捕することができたのか。
三、轢き逃げ現場に警察が駆けつけて捜査し、犯人を逮捕するまでの過程に、物語上
矛盾があります。これを指摘してください。
四、骨董商が盗んだはずの三体中二体の石仏はどこに消えたのでしょうか。
四問中三問以上答えた方を正解とします。
解答1
解答2
解答3
解答4
【チックポイント】※問題とは無関係です。
起雲閣に設置してあるスタンプを
下記の欄に押してください。
【宿泊施設】
ご宿泊された施設で施設名のわかるスタンプを
下記欄に押してください。
歳
〒―
――
お名前
お客様ご住所
電話番号