いろいろの逸話を考える。
あなたはどう考えますか。
敵に塩を送る。
謙信が敵将武田信玄の領国甲斐、信濃に塩を送ったという話は
戦国の美談として、人口に膾炙(かいしゃ)している。
信玄が三国(甲斐・相模・駿河)同盟を破って駿河へ侵攻すると
今川氏真(うじざね)は相模の北条氏康とはかり 永禄十年報復措置として
信玄領国へ塩を送ることを前面的に禁止した。戦国大名が取った経済封鎖政策一環である。
塩留めとなれば甲斐領民の困惑ぶりは、想像にあまりある。このことを知った謙信は、
「信玄と争うところは、弓箭(きゅうせん)=いくさ)にある。米や塩ではない」と、以前と同様に
塩を輸送するよう蔵田五郎左衛門に命じた。このため武田の領民は、蘇生の思いをなし、深く
謙信の高義を感じ、その厚志を徳としたという。義塩に感謝した信玄が、そのお礼に
贈ったと伝えられている太刀一振(塩留めの太刀)が東京国立博物館に所蔵されている。
永禄十二年正月十一日越後からの塩が゛雪中、糸魚川街道(松本街道)を経て深志城下(松本)
到着した。喜んだ人々は、謙信の徳をたたえ、この日を塩市の日とし、御神塩をわけあった。
この塩を正月十五日の粥に入れて食べると、病気にかからないと伝えられている。塩を運んできた牛
をつないだ「牛つなぎ石」が松本市の繁華街にある。いつの頃からか、ここで飴が売られ、飴市と
呼ばれるようになった。塩送りの美談は後世の創作であるとは言い切れない、四百年以上
かたりつがれてきたのであるから。
「上杉謙信」 《新潟県人物群像 弐》 昭和六十一年十月一日、新潟日報
武田に塩を送ったエピソードは有名。これを、江戸時代の陽明学者・頼山陽が讃えて
「敵に塩を送る」という故事が生まれたといわれています。
「塩を絶つとは卑劣で武士の恥であり、相手の国の力を弱めようとする行為自体が、
相手に対し恐れをもっている証拠だ」と言い、敵国である武田家に塩を通常の価格で
売ったという。尚、高い値段で塩を売りつける者がいるのなら連絡せよとのことだった。
実際にあった話かどうか疑問だが、上杉謙信は皆が恐れていた甲斐の武田信玄を、まったく恐れては
いないという心情を感じとれる話だ。それと心の広い人物であったことも伺い知れるものだ。
この逸話に関しては信頼すべき歴史の文献などの裏付けがなく、後世に生まれた
作り話ではないかとも考えられている歴史家の杉山博は「甲州塩市場に、
敵であろうと味方であろうとおかまいなしに、塩不足に目をつけて塩を売った「商人」
たちの仕業が このような話に出来上がったのではないか、としている。
私は敵に塩を送ったことを信じたいと思います。
上杉謙信は戦国時代の武将の中ではとくに教養が高く和歌や書などはとくに優れていた
その謙信を少年期に教育した天室光育大和尚(春日山林泉寺六世)上越市をはじめ
北高全祝大和尚(雲洞庵十世)など 名僧と言われる優れた人たちとかかわり普通人の考えでは
理解が難しいところの境地に達しています。謙信にとっては民が困っているならとの
行動だったのではないかと考えます。そして上杉謙信・武田信玄と両方の武将とかかわりの
深かった北高禅師が塩を送るに重要な役割をしていたような気がします。
越後の雲洞庵から武田晴信(信玄)に招かれて龍雲寺(長野県佐久市)の住職になられた方です。
北高禅師様の逸話などは「北越雪譜」の中に怪獣退治の話が載っています。