直江山城守

直江信綱とお船の方(おせんの方)に子供がいた可能性65%

高野山の龍光院三十六世 「法印権大僧都清融」 この方は
「金剛峰寺諸院家祈負輯」に直江山城守の息となっており。
寛永八年(1631)十月二十二日 五十八歳逝去
清融は母の浄財を貰い瑜祇塔を修復しています。
この塔は火災にあい長い間中絶していた。
「高野山春秋編年輯録」にもこの事が記されているその中で
塔の再建は龍光院主政宥阿闇梨が行った。
龍光院主について越後大守上杉景勝の長臣直江山城守の庶子
と記してあるが仏門に入った子の記述はない。
年齢や諸事情を考えると信綱の子とするのが 確率が一番高い
それとも信綱以外の直江家にかかわりのある子息なのか。
 あなたはどう考えますか。

樋口與六の母

父は上田庄(南魚沼市六日町)坂戸城主長尾政景の長臣樋口惣右工門兼豊で、
母は山東郡與板(現・長岡市与板)の城主で直江大和守親綱の娘。
直江親綱には景綱・重綱・正信・そして樋口兼豊の室となった娘(名前は不明)がいた。
永禄3年兼豊の長男として生まれる。
したがって与六とおせんさんは従姉になる。

兼続の母は北信濃の豪族 泉弥七郎重蔵の娘とする考えもある。

「上田士籍」(上杉文書)のなかに 信州泉氏娘と記されており 
また「文禄定納員数目録」(上杉文書)のなかにも泉弥七郎重蔵娘と記されている。
しかし決定的な文献とは言えないが こちらを支持する声は大きい
あなたは どちらだと思いますか。

私は直江家の娘だという説を支持します。根拠は兼続とおせんさんは従姉で
あったとすると その子供はいろいろと障害を持って生まれる可能性が大で
子供たちが体が弱かったりと 親よりも早く亡くなっていることから 近親
結婚だったのでは と考え直江親綱の娘の説を支持します。

上杉謙信が涙を流す
不識庵謙信(ふしきあんけんしん)
松隣夜話より

天正元年四月、武田信玄死去の由、同年九月、あまさありの阿達山より、
書付を以て註進す。謙信公大に惜み給ひ、子期去りて、伯牙琴を留む。
吾天下の知音なしとありて、御涙を流し給ふ。



参考文献

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