北高全祝大和尚
生まれは羽州(山形県)北畠顯家(きたばたけあきいえ)の子孫で
十二歳で父を亡くして仏門に入る。上杉謙信・武田信玄に大きな影響を与え
上杉景勝・直江兼続・武田勝頼 達にも信頼された名僧であった。
羽州で修行のち京都普門院 甲府の大泉寺の住職を経て
雲洞庵第十世 北高全祝大和尚となる のちに武田信玄に招かれ
(1558〜1570)頃 信州岩村田にある(現佐久市)龍雲寺の住職に就かれる。
何年に龍雲寺の住職になられたのかは文献によって違うためはっきりしない。
そして元亀3年(1572)4月から7月にかけ
信玄上洛の必勝祈願の千人法憧を実施した これは多勢の僧侶が
集まり道場に籠もって行われる宗教的大行事で規模の大きさで僧録司の
立場を国内外へと大きく示すことになる。
天正14年12月2日没 龍雲寺で80年の生涯をとじる
また武田信玄の旗印「風林火山」
を最初に用いたのは北高禅師の祖先であった北畠顯家で
学識も深く孫子などの影響を受けていたとされています。
北越軍談より
同年(元禄十一)九月下旬、甲州の長遠(延)寺実了(ちょうえんじじつりょう)、武田入道の
密旨を受(うけ)しにや、春日山へ来り、越甲和解の扱イを成さん事を欲す。
公も又内々其望なきにしも非ず、然るべく計ふべき旨示し遣さる。是に依て晴信より
信州岩田村の竜雲寺住職法興和尚を長延(実了)寺に差添、越府に来らしめ信玄の
所存を演(のべ)て曰、「和与の事一段同心満足是に過ず。晴信逐年(ちくねん)衰老に及ぶ。
@(せがれ)勝頼末微弱の儀なれば、万端頼入御入魂(ごじっこん)を仰ぐ。然れば
約諾違変なき印に人質を玉わるべし」と伝々。公聞召(きこしめさ)れ、「謙信孤立して
身命を敵徒の鏃(やじり)に掛け、辛苦する事廿余年。竟(つい)に他家の力を借りず。
今晴信と和平の儀も、全く助を得ん為に非ず。只隣国の好みを通ぜんと欲する而已(のみ)。
然るに信玄人質を望まるる条、其謂(いわ)れなし。是併(これしかしながら)謙信を幕下と称し、
自家の威を亢(たかぶ)らん為の造意たらん。不実の表裏は、予が心服せざる処也」とて、
以の外御不興に付、両僧手を拱(こまぬ)き甲府へ帰ると伝々。
甲陽軍艦より
ある時信玄公 宣(のたもう)は、既に日本国にをひて、千人の学者を
あつめて会上(えじょう)といふ事今までさのみきかず。天下を支配仕る
三善修理大夫処(みよししゅりのだいぶところ)にも其さたなきは、我朝の名折なり。
某母のため千人の江湖(ごうこ)を置「せ」まいらせて、会上の法の法堂(ほうとう)の檀那に
いやしくも信玄が罷成べきとて、小宮山丹後守(こみやまたんごのかみ)に仰付けられ、
曹洞宗大益と伝僧の江湖首(かしら)にて、ほつこう和尚と申知識に信州岩村田にて
千人の江湖ありて会上の執行、凡(およそ)日本国中にては例稀(ためしまれ)ならずと
いふ事なし
会上(えじょう)・・・・・・・・・・・「会場」千人の僧を集めること。
江湖(ごうこ)・・・・・禅僧、とくに曹洞宗で、修学・参禅の僧侶
北高全祝禪師
羽州人。姓源氏。父號北殿。奥州國司、北畠顯家須裔也。
師年十二喪父。師事州之廣碩禪師。
上記文章は北越詩話より

坂口仁一郎著
北高禅師は「北越雪譜」「北越詩話」などに多く書かれている。
又武田信玄との関係は「戦国大名武田氏」の中に
「武田信玄の曹洞宗支配と北高禅師」と言う項目があり
柴辻俊六氏がとても詳しく記述されています。
北越雪譜に載っている 北高和尚(雲洞庵第十世 北高全祝大和尚) の逸話
雪国の暮らしなども記され
北越地方の資料的にも価値のある書である。著者は、鈴木牧之。
1837年(天保8)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった。
北高和尚
ほくかうわせう
以下「北越雪譜」より
魚沼郡雲洞村(うんどうむら)雲洞庵は越後国四大寺の一つなり四大寺とは滝谷の慈光寺、(じくわうじ)
村松にあり村上の耕雲寺(こううんじ)、伊弥彦の指月寺(しげつじ)、雲洞村の雲洞庵なり。
十三世通天和尚(つうてんわせう)は、霜台君(さうたいくん)の謙信(けんしん)の事親籍にて、
高徳(かうとく)の聞えは今も口碑(うはさ)にのこれり。景勝君(かげかつくん)も此寺に物学(ものまな)び玉ひしとぞ。
書(じょ)宝物等も多し、その中に火車落(くわしゃおとし)の袈裟(けさ)といふあり、香染(かうそめ)の麻(あさ)と
見ゆるに血(ち)の痕(あと)のこれり。是を火車落とて宝物とする由来(ゆうい)は、むかし天正の頃雲洞庵
十世北高和尚といひしは学徳全備(がくとくぜんび)の尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家(のうか)
に死亡(しぼう)のものありしに、時しも冬の雪むりつづき吹雪(ふぶき)もやまざりければ、三四日は晴(はれ)を
まちて葬式(さうしき)をのばしけるに晴(はれ)ざりければ、強(しひ)ていとなみをなし旦那寺(だんなでら)
なれば北高和尚をむかへて棺(くわん)をいだし、親族(しんぞく)はさら也人々蓑笠(みのかさ)に雪を
しのぎて送(おく)りゆく。その雪途もやや半にいたりし時猛風俄(まうふうにはか)におこり、黒雲空(こくうんそら)に
布満(しきみち)て闇夜のごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺の上に覆(おほひ)かかりし。火の中に尾は
ふたまたなる稀有(けう)の大猫牙をならし鼻(はな)をふき棺(くわん)を目がけてとらんとす。人々はこれを見て
棺を捨(すて)、こけつまろびつ逃(にげ)まどふ。北高和尚はすこしも惧(おそ)るるいろなくに呪文を
唱大声一喝(となへたいせいいつかつ)し、鉄如意(てつにょい)を挙て飛つく大猫の頭(かしら)をうち玉ひしに、
かしら破(やぶ)れけん血ほどはしりて衣(ころも)をけがし妖怪(えうくわい)は立地(たちどころ)に
逃去(にげさ)りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。
此時めしたるを火車おとしの法衣(ころも)とて今につたふ。
雲洞庵
敵に塩を送る
戻る
興味のある方は参考文献を読んでください。
無断転用、使用を禁止します。
Copyright ©koshinoyu2008.All rights reserved.